日本の刃物産地と刀鍛冶の歴史的関係
その前に、日本古来の打ち刃物と刀匠の関係をご理解いただければとの念から、国の
伝統的工芸品に指定されている刃物産地の歴史的背景を簡単に記しましたので
お読みいただければ幸いです。
和式刃物と刀匠
日本古来の打ち刃物の歴史を元を辿っていくと刀匠や刀剣が基礎になつていることがよく解ります。
国の伝統的工芸品に指定されている刃物産地は古い歴史があり、その産地の多くが刀匠が刃物作り
を指導したことが刃物産地のスタートになっております。
参考までに指定されている6地区の刃物の歴史を記しました。

①越後打刃物 新潟県与板町(現在は長岡市与板)

戦国時代、上杉謙信の家臣直江兼継が、16世紀の後半に春日山より刀作り職人を招き、打刃物を作ったのが始まりです。 江戸時代中期には、与板の大工道具は「土肥のみ」、または、「兵部のみ」として知られるようになりました。明治時 代に入ると刀作り職人が鉋の製造を始め、その鉋は全国に知られるようになりました。越後与板打刃物は、400年 余りの伝統的技術・技法に培われた刃物です

②信州打刃物 長野県長野市、千曲市、上水内郡信濃町、牟礼村

16世紀後半に起きた川中島合戦当時、この地方を行き来して武具・刀剣類の修理をしていた刃物作りの職人から、 里の人々が鍛冶の技術を習得したのが始まりと言われています。 19世紀前半には、鎌作りを専門にしていた職人が、「芝付け」「つり」の構造を考案しました。同じ頃、別の職人が両 刃鎌を片刃の薄刃物に改良しました。この二つの鎌が現在の信州鎌の原型となっています。

③越前打刃物 福井県武生市(現越前市)

室町時代の初め頃、京都の刀匠千代鶴国安が、刀剣製作にふさわしい土地を求めてこの地にやって来た時、近くの農 民のために鎌を作ったことが始まりだったと言われています。江戸時代には福井藩の保護により、全国で売られるよ うになりました。

④堺打刃物 大阪府堺市

世界最大の古墳仁徳陵は堺の東部丘陵地帯にあり、当時この造営は想像を絶する大土木工事であったものと思わ れます。工事用の鋤、鍬などの土工具が沢山生産され、職人は集落をつくって住みつき、今では丹南(タンナ)や日置 荘(ヒキソウ)などの地名として面影を伝えています。天文12年(1543年)ポルトガル人によって鉄砲、たばこが伝来し ました。堺刃物の優秀な技術はここにも生かされて、戦国時代堺は鉄砲の産地として重要な役割を演じました。 天正年間(1573年~)たばこの葉を刻むたばこ包丁が堺で造られるようになり、徳川幕府は堺極印を附して専売したた めに、堺刃物の切れ味と名声は全国各地へ拡がりました。出刃庖丁は江戸時代に堺の刃物鍛冶により考案されました。 業務用の和庖丁の90%近くが堺でつくられております。

⑤播州三木打刃物  兵庫県三木市

安土桃山時代の末期、三木城が羽柴秀吉に攻められて落城し、三木の町は破壊されました。その後秀吉が、町民の諸 税を免じて町の復興を図ったところ、神社、仏閣、家屋の再建のため、大工職人が各地より集まり、三木の大工道具の 発展につながりました。

⑥土佐打刃物  高知市、安芸市、南国市、須崎市、土佐清水市、香美郡土佐山田町、ほか15町

天正18年(1590年)土佐一国を総地検した、長宗我部地検帳に、399軒の鍛冶屋がいたことが記されています。土佐打刃 物の本格的な隆盛は、江戸時代初期土佐藩による、元和改革(1621年)から始まります。藩の森林資源の確保及び新田 開発の振興策の遂行により農・林業用刃物の需要が拡大し土佐打刃物は生産量・品質ともに格段に向上し現在に至って おります。

⑦越後三条打刃物 三条市

信濃川の存在は、三条の人々に取って欠かせない存在だったのと同時に、水害に悩まされました。特に農家の人たちにとっては 死活問題でした。その副業として江戸時代から和釘作りが盛んに行われておりました。和釘つくりの技術が進化して刃物つくり も行われるようになりました。越後三条打刃物が国の伝統的工芸品に指定された品目には、刃物ではない和釘も含まれており ます。
上記に関市が無いのが不思議に思われるかも知れませんが、関市には刀匠も大勢いますが、明治に入りいち早く洋刃物 の製造を始め、機械化、分業化を進め輸出に力を入れてきたため洋刃物の生産は日本一を誇り、日本のゾリンゲンとも 言われておりますが、和式刃物の生産はほどんどされておりませんので指定対象にならないのがその理由です。
また、人間国宝の刀匠 天田昭次氏も刀が作れなくなった終戦直後に郷里の新潟に戻り岩崎航介氏に鉄について、 刃物鍛冶の長島宗則氏に刃物作りをそれぞれ学びカンナの刃を作っていたそうです。

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